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みそひともじ

神等去出祭りも過ぎると、出雲地方も、空は一変し、鈍色に景色が次第に染まり、時折白いものも混じるようになると、何故か口に浮かぶ歌がある。
  ” 再びは見るときなければ宍道湖の向かいの岸にならぶ灯のかげ ”
                     柳原 白蓮  「本名 宮崎はな子」
    昭和10年、松江に来たときの歌である。
季節は分からないのに何故かこの季節に口に出る。
この島根には、昭和のはじめ、大正にも、石見を除いても結構歌人が訪れている。
 与謝野 寛・ 晶子・長塚 節・木下利玄・大町桂月・大田水穂・尾上柴舟・斎藤茂吉・石槫千や・
 佐々木信綱・吉井 勇・等々、、、、、、。
この中で、特に好きでよく口ずさむ歌がある。
  ” 地は雪に空は狭霧に包まれて我れひとり立つ城跡の山 ”
                     大町 桂月  「本名 芳衛」
城跡の真山(しんやま)は、松江市街の北方にある。約26mの険しい山で、山中鹿之助が尼子
勝久を奉じた山城であるが、天亀2年(1590)毛利勢のために陥ちた。
残念ながら、いつか、いつか登ろうと思いながら、つい、この齢になってしまった。
断っておくが、ぼくは歌を詠まない。今までにも詠んだことはない。ただ、ただ、鑑賞、鑑賞するだけであります・・・・・・・。

コメント

  1. 高書な投稿 あほなとくちゃんにはコメントは
    荷が重すぎる・・・・・・・
    誰か助けて・・・・・・・・(#^.^#)

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    1. 寒くなって腰も痛いし、こたつに入っていたら雪交じりの
      空。毎年、今頃玉造の湯で忘年会をやっているので湖を
      思い出しただけ。ことわったように歌はできないし、頭は
      からっぽ。
      とくちゃん先生、嫌わないでパソコン教えてね。

      削除
  2. 今を去ること58年前、上京するため郷里を後にした時、
    出雲号の車窓から見た神立橋の風景を今でも忘れません。

    白蓮さんの宍道湖の灯りと同じ心境だったのかな・・・・、
    と思いました。

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  3. 神等去出さんに寂寥感を覚えたのは人生は〇〇〇〇だから
    でしょうか・・・・。
    ちょっとばかし、意表をついたブログになって、ごめん、
    ごめんです。・・・・。

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  4. 藤岡大拙先生の著書、”出雲人”ではないが、出雲平野を
    出ることもなく、ハンド(水を入れる大きなかめ)の中に
    とっぽりと浸って、はや、老爺。斐伊川を出雲号で渡る
    ことはありませんでした。それでも、やくもで鉄橋をわたり、
    神立橋の灯りが水面に映るのを目の当たりにすると、あぁ
    帰ってきたと安らかな気持ちで降り支度です。神立橋鉄橋は
    出雲の国境ではないでしょうか。 こころの・・・・。
    昭和一桁は、わすられない出雲号です。白蓮の宍道湖は
    スペースがなくまたの機会にします。有難うございました。

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  5. 出雲号⇒寝台出雲号:20年の私にも思いで深い列車です。
    上京する時帰省する時ほとんど出雲号でした。
    当時は京都?位まで汽車で、石炭の独特のにおいを
    思い出しました。
    確かに神立橋を通過すると荷物を下ろしていました。
    会社に入ってからも東京出張は寝台列車でした
    確か朝6時ごろ東京に着きます。ちょど良い時間です。
    飛行機は大分たってからだと思います

    一度東京出張の時 嫁さんと子供つれて遊びに行きました
    当然会社には内緒です。
    日曜日の夜東京駅で子供たちを見送った時
    ものすごく何か侘しい・・寂しさを覚えたことを
    思い出しました。

    懐かしい事 思い出させてくれて、ありがとうございました。

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  6. とくちゃん先生も身体のなかに一杯ものが入った日本男児
    だということがよくわかりました。
    過去はとりあえずあちらに置いといて、これからは平成の男の子
    として
    頭はパソコンを動かせるように、身体はアビリティに通える
    ように老人力を鍛えて、とくちゃんを先生として勉強しますから、
    落第はさせないで・・・。頼んまっせ。・・・・・

    返信削除
  7. 「神等去出祭り」(からさで祭り)
    今日 13日 万九千神社(まんくせん神社 斐伊川神立橋の東側)で
    出雲大社に来られた 神様を お送りする神事です。

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  8. 万九千さんは、新暦と旧暦の2回お祭りがありますが、今は旧暦の
    お祭りが重視されています。農家の人が農具や、みかんの苗木を買って
    帰られる姿を多く見かけましたが、今日はほとんど見かけませんでした。
    (今は車でのお参りだからでしょうね。)”わたくしめも失礼”
    神等去出神事の行われる夜は、早く戸を閉めて静かに過ごすと言われますが
    今はどうでしょうか・・・・。
    八百万神が、神議りの後、明日の未明にかけて旅立たれる13日の夕、神事
    の行われている神立橋付近から、今年最後の月を皆様、元気でお過ごしに
    なられますようお祈りいたします。
    からお祈りいたします。

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